先代から工房主へ 1949年から変わらぬ『モノづくり』への技術と情熱

山本一家のランドセル物語

はじまりは、1949年

工房主、山本一彦が着るユニフォームの背中には鞄工房山本のロゴと共に、”SINCE 1949”と記されている。 1949年、昭和24年。それは先代である工房主の父、山本庄助が14歳年上の兄と共に大阪の鶴見橋で鞄づくりを始めた時である。戦後、まだ鞄づくりのための革が配給制のため手に入りづらかった大阪から、生まれた土地、奈良へ戻ってきたのには訳があった。 「まだ、奈良の方が革が比較的手に入りやすかったと聞いています。」と話す工房主。 先代は、藤原京跡にある歴史ある地で鞄をつくり続けた。その背中を見てきた工房主も、自然と鞄づくりへと携わるようになっていく。 「当時の工房は、家内制手工業でしたので、家の中が作業場だったんです。畳の上に座って作業して、私も学生の頃から手伝っていました。」 先代・山本庄助 そんな父、いや先代からどのように技を学んでいったのだろうか。 「背中を見て、技などを習得していった」と工房主は語る。手取り足取り教える、と言う現代の技の伝承ではなく、まねぶ、と言われるやり方だったそうだ。 「厳しい父でした」と語るが、それは究極で最高の本革鞄、ランドセルを1967年(昭和42年)から専業でつくり続けてきた先代が、次の世代に技術や感覚をしっかりと伝えるために必要な方法だったのかもしれない。 常務であり、妻である加代子や、長男の一暢には「やさしい」という印象だったが、昔ながらの職人らしい姿なのかもしれない。 工房主・山本一彦 その後を継いだ工房主も「職人」なのか、と尋ねると、ちょっと違う、という返事が返ってきた。 それは、工房主の世代になって若い世代のスタッフが入ってきた事とも関係する。 「職人というと、一人ですべてを完結させる、という感じがありますよね。でも、今の鞄工房山本は、20代、30代のスタッフも多い。それぞれが分業で特化した技術を持っている。彼らの技術を向上させ、全体をまとめるのが私の役割で、だから職人ではなく『工房主』とさせていただいています。」 先代からしっかりと受け継いだランドセルづくりの技を、次の世代へと渡している最中なのだ。

先代から継承された技術と情熱

「職人たるものどんな時代でも良いものをつらなくてはならない。」 「良いものをつくるためには手間を惜しんではならない。」 これが、先代・山本庄助の教えである。 それを幼い頃から目の前で見てきた工房主・山本一彦。奈良県橿原市飛騨町という場所は先代の出身地でもあり、工房主の出身地でもある。 「小さな家でした。そこに近所の親戚が手伝いにきて、家の中に大きな裁断機を入れて、下の階に両親、上の階に僕と弟が。寝るときには仕事の台を上げて。私が高校一年生の夏までそんなスタイルで生活していました。」と振り返る。 つまり、鞄やランドセルはいつもすぐそばにあった生活だったのだ。 自然と鞄づくりに学生時代から携わるようになっていった工房主。しかし、父は跡は継がず就職するものだと思っていたようだ。 「僕はどこの就職試験も受けずに、大学を出してもらった後はこの家業に入る、と決めてました。」 ただ、その後は何をしろ、などという事ではなく、見よう見まねで様々な技術を習得していったという。 「裁断をかなりやっていましたが、おかげで革の事はよくわかるようになりました。」 昔気質の父、いや先代。鞄づくりの基本と心はしっかりと学んだが、工房主はそこで留まらなかった。 「やはり、自分自身で色々研究しました。同業のランドセルメーカーから話を聞いたり、一般鞄のメーカーからいろんな話を聞いてどんな事をしていけば良いのかを考えました。」 その集大成のひとつがかぶせの部分の「コバ塗り」
鞄工房山本自慢のコバ塗り

鞄工房山本自慢のコバ塗り

裁断面をいかに滑らかにできるのか、そして美しさにもこだわった結果である。元々は紳士鞄で使われていた技法を鞄工房山本流に応用したもの。他にはまねの出来ない滑らかさを実現している。 その難しさは、かぶせの表と裏の素材の違いにある。表の本革、裏の人工皮革。違う素材であれば、塗料のしみ込み方や乾き方、定着具合も違ってくる。しかし、手間を惜しまずとことん研究した事で、究極的な滑らかさを実現したのである。その期間は1年以上。 大量に生産するものに対しても手間を惜しまないことは「他にはない」と工房主も自信を持って言う。 先代の教え。それは脈々と受け継がれているのがおわかりいただけるであろう。

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